写真表現 | Photograph days  

ゆっくりプリント、じっくりセレクト、そしてまたプリント。

/Posted:2019.05.08

最近すこしづつプリントをしています。ここ3年くらいで撮りためたものを、もう一度いちからRaw現像しなおしてプリントです。どこかに応募するなりしようと思っていますが、あせらず出来上がったら応募するという気持ちでいます。目標を決めてそれにむけてがむしゃらにやるのもいいのですが、仕事との兼ね合いでそこまでがっつりできません。できる範囲で、というのが基本スタンス。

まずは候補となる写真をLightroomでざっくりセレクトして、2Lにプリントします。一晩で数枚プリントするくらい。毎晩やるわけではないので、ゆっくりプリントです。並行してセレクト作業にも着手しています。床にならべてセレクトしたり、ぺらぺらめくっていまいちしっくりこないものを除いたり。そうやって写真を選んでいきます。なんども見返してじっくりセレクトです。

そして、セレクトがおわったら、再びプリントへ。まだこのフェーズには入ってませんが、要はプリント修正です。最初の2Lプリントでは完成まで追い込んでいるわけではないので、最後の仕上げというわけです。また、セレクトした写真全体の調子を揃えるという意図もあります。

さて、あとどれくらいで終わるかな・・・。ゆっくり、じっくりと仕上げていきたいと思います。

新しいプロジェクトの予感?

/Posted:2019.05.04

GW中の5月1日、午前中は家から阿佐ヶ谷までいつものノリで撮影したあと、東西線で早稲田へ。友人が早稲田でブックカフェをやっているのです。もう1年以上も会ってなかったと思うんですが、久しぶりに色々お話しして楽しい時間を過ごせました。いただいたコーヒーも美味しかったです。

お店を後にした後、時間があったので早稲田のあたりをぶらり撮影。大通りはつまらないので積極的に路地に入り込みます。とはいえ、面白いものにはそうであるわけではないのですけど。その間何回か「路地」自体を撮りました。真ん中に主要被写体があるわけでなく、あるといえば「道」それ自体。周囲も家や壁ばかり。

後になって見返すと、一つ一つはさほど面白くないのだけど、道を撮ったものを並べて見てみるとなんだか気になる。「面白い」まではいかないけど、何か引っかかるのです。曲がりくねった道の感じ?タイポロジー的な感じ?なんだろう?

そして、今日。午前中撮影へ。いつも通りの引っかかるものを探しつつ、道を意識して撮ってみる。その場で「面白い!」と思えるものはないのですが、後で見返せばいいやとせっせと撮ってみました。結局、これと言えるものは撮れなかったのですが、道の写真は何枚か撮ったので、iPhoneに転送してチェック。うん、まとめるとまぁまぁ面白くなる可能性もあるなぁという感触。今日の写真はこちら↓。

https://www.instagram.com/p/BxBhIrCgU3P/

この感じで道を撮るシリーズが始まるかもしれないと思い始めました。うん、まとまった数があれば何か出てくるんじゃないでしょうか?しかも、道はそこら辺にたくさんあるので、被写体にはそんなに困らない。ちょっと頑張って見たいと思います。

東京で撮り続けて見えてきたもの

/Posted:2019.04.18

以前は房総まで行ったり、中央本線で山梨へ行ったりと遠方に行って撮影していました。しかし、ここ数年は遠方に撮影に出向くことはなく、世田谷、三鷹、調布、杉並、新宿など自宅から遠くないところでちょろっとお散歩撮影が主です。

理由の一つは子供が生まれて、育児・家事・仕事が優先になり遠方にでかける時間がなかなかとれなくなったこと。もうひとつは体調が優れず以前のように長時間の移動や撮影がつらくなったことです。望んで撮影したのではなく、自分を取り巻く状況の変化が東京で撮影させるように仕向けたんです。

東京で写真を撮ろうとするとなかなか難しかった。なにせ以前はフォトジェニックな広い空間、ちょっと廃れた漁港や山の中の家など撮影する動機になるものにあふれていました。一方東京は(もちろん地域によって差はありますが)都会的なものにあふれ、空間は狭く、簡単に被写体と出会えるものではなかったのです。いや、実際には被写体がないわけではなく、僕自身の腕(いや、眼)がまだまだだっただけだと最近になってわかり始めました。

都会的なものだろうとなんだろうと、そこに自分が反応する要素さえ見いだせれば写真は撮れる。どこだろうと、なんだろうといいんです。自分の眼が自然と視たいものを見出すものだったんです。それには訓練が必要だし、時間とともに、そして成長とともに変わるものです。

僕は自分が撮りたい写真がだんだんと見えてきました。それは言葉ではうまく説明できません。説明してしまえるものなら写真として成立しなくなるのでそれは問題ありません。

でも、写真のそばに言葉を添えることはできそうです。何かしら添えるとすれば、「均衡」「距離」「交叉」、このあたりの言葉のような気がします。僕は空間の中にそういったようなものを見つけて、あるいは写真を撮ることで生み出しているような気がします。

もうしばらくこのままこの状況にまかせて、東京を撮り続けて行こうと思います。

 

 

井上 美千子 写真展 「木隠の聲をひろう」 を見て来ました

/Posted:2017.07.31

ニコンサロンで開催中の写真展を見て来ました。

写真はアスペクト(画面の縦横比率)で印象が変わる

/Posted:2017.02.16

以前写真はフォーマットで変わるということを教わったことがあります。大きいフォーマットの方が緻密でリアリティーあるいは具体性のある表現に向いている、小さいフォーマットのほうが抽象的な表現に向いているということでした。

写真は真実を写さない。ある事物が放つ光を捉えた画である

/Posted:2017.02.06

最近は機材のことばかりで”写真”を記事にすることが減ってました。たまには写真をのことについて書いてみようと思います。

日々、写真は撮っています。並行して作品として発表することを念頭に写真についてあれやこれや考えるということをしています。 単に考えるだけでなく、試行錯誤しながら写真を撮ってみたり、写真に関する本や芸術に関する本を読み漁っている状況です。

写真集:「 西蔵(チベット)より肖像 」(有元伸也 )

/Posted:2016.03.08

先日調布パルコに行ったら催事場で古本市をやっていた。ぶらーっと見ていたところ、一冊の写真集が目に止まる。それが有元伸也の 「西蔵(チベット)より肖像」だった。


 

カメラを変えると写真が変わる

/Posted:2015.07.06


Me. / benjaflynn

この言葉、よく聞く。

週末新しいカメラを買った。
別にカメラが欲しかったのではなくて、レンズがお目当てだったのだが、カメラが付いてきてしまった。

狙いはライカ マクロエルマリート R  60mm f2.8。
非常にシャープで有名なレンズだ。以前から欲しかった。
マクロに使ってもよし、標準レンズとして使ってもよし。ポートレートにもよし。最高の万能レンズである。

表現としての写真

/Posted:2015.06.17

写真の最初の発展は、絵画の代わりだった。肖像画である。

肖像画は遡れば王侯貴族にしか許されない贅沢の極みであったが、職業画家の増加や商人の台頭に連れ、徐々に特権階級のものから離れていく。

そして、写真が登場することで、肖像写真が生まれ、一般化、大衆化していく。

このような背景から写真は絵画の代わりとしての宿命を持たないわけに行かなかった。

また、当然二次元の画像という点においても絵画を模倣するということは自然な流れだったのだろう。

では、写真の写真らしさ、写真だからこそ可能な表現とは何なのか。
そんなことを考えた人々がいた。ロランバルトやスーザンソンタグが有名だ。

彼らは写真とは何かを考え、その存在を問い続けていた。

そして、写真家たちもたんなる絵画の延長たる「実用写真」からの脱却をめざした。

くわしくは、様々な書籍を読んでいただくとして、ひとつの写真的表現としてストレートフォトグラフィーについて少し説明したい。

写真はその特性から、ある時、ある場所で、ある人が選択した記録である。
撮影者は何かに反応し、それを捉えたいと考えた。その結果が写真というメディアとして生成される。

言い換えれば、写真というメディアはある撮影者が現実の世界に目を投じた時に一体何に反応し、何を感じたかを投影するものである。

そのような写真を組んでいくことで、その撮影者の撮影者としての眼、感覚、そういったもの、世界観が現れてくる。その世界観を鑑賞者が追体験するものである。

撮影者が一般的な美意識や感覚と離れ、独自の視点を持っていればいるほど、写真にはその独自の世界が現れてくる。

表現というものは誰かに迎合するものではなく、自分独自の思想、世界を何らかの形にし、世に問う行為である。

写真が表現として成立するひとつの方向性がストレートフォトグラフィーの考え方と言って良いだろう。

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